自己教育論

1999年に私が作成、発表したもので、考え方に若干変化はありますが、原文のまま掲載いたします。

・はじめに

本文章は『自己教育』という理念を提唱するものです。
これによって少しでも多くの人が自己教育の必要性、意義を理解していただけたら本当に幸いな事だと思っています。

※ 教育思想に関する参考文献は特にありません。

・自己教育とは

自己教育とは自分自身に対する教育で、自分にとって何が必要なのか自分で考え、学ぶ事に対して意義を持ち、自ら主体的に学ぶ事を指します。
現代の管理教育の中で成長してきた人達にとって『自己教育』という言葉自体、極めて違和感のある言葉に聞こえるかもしれません。
しかし本来教育とは決して第三者に強制されるものではなく、常に自己教育であるべきなのです。
ただ現代の管理教育の中ではその事が極めて理解しにくい環境となっているのです。
現代の社会において教育的役割は一般に学校が果たすとされています。
教育=学校教育ともいえるぐらい定着しています。
学校教育は管理教育と言い換えることができます。
この管理教育において学習者は形式的、基本的、共通的な知識や価値観が養われます。
現代社会において基本的、形式的、共通的な知識や価値観を身に付けることは確かに重要なことです。
共通の言葉を身に付けなければ、お互いにコミュニケーションがとれませんし、人間としてのルールがなければ組織を構成する事はできません。
また普遍的な理念を共有する事は社会システムを安定させるためにはとても重要な事ですし、共通的な価値観があるからこそ、世論というものが形成されるのです。
また知識が形式化されていれば学習者にとって学ぶ負担が軽くなり、教育者は学習者の知識を数値で評価することが容易になるのです。

管理教育において教育者は極めて形式的なカリキュラムをもとに、極めて形式的な教育が行い、極めて形式的な知識を要求します。
確かにこれによって学習者の目標が統一され、学習者は極めて形式的な知識を一時的にでも高めようと努力するでしょう。
また教育者は学習者の形式的知識を数値に置き換え、学習者を序列化することができるでしょう。
しかしこれによって学習者はどれだけ大きなものを失うことになるのか気づいているのでしょうか。
この様な管理教育において学習者にとって学習は単なる作業となり、学習とは教育者、もしくは社会的に評価を受ける手段としか見れなくなっているのです。
そして学習者にとって学ぶことは強制となり、学ぶことに対する極端な嫌悪感、苦痛を与えることになっているのです。
学習が作業しかみれなくなると事が、人としてどれほど大きなものを失うことになっているか気づいているのでしょうか。
この様にして得た形式的知識が学校を卒業後、果たしてどれだけ残り、役に立つというのでしょうか。
この様な学習観を持った人がその後、自らの意思で学ぶことができるでしょうか。
果たしてこれで学校は教育的役割を果たしているといえるのでしょうか。
管理教育で行われているのは教育ではなく学習の強制、言い換えれば競争の強制なのです。
しかしそれは極めて対症療法的な考え方であり、人の持つ主体性を全く無視した行為であり、何の為に教育なのか、誰の為に教育なのか全く理解されていないように思えるのです。
ではなぜ学習者はこの様な環境を与えられているのでしょうか。
それは現代の管理教育は学習者の主体性を無視した極めて客体的な教育思想をもとに成り立っているからではないでしょうか。
現代の客体的教育思想において教育とは学校のみに与えられるものであり、家庭や地域による教育、また自己による教育は限りなく過小評価されているのです。
教育者は行動主義の原理にのっとって学習者に形式的知識を供給し、期待された結果を得られる事を最終的な目的としています。
その為、教育者によってコントロールできない意欲、行為は全く無視されているのです。
もし管理教育が形式的な知識や価値観の形成を目的としているのなら、はっきり言って存在意義は無いといえます。
現代のような情報化社会において個人で形式的な知識、価値観を養うのは十分可能なことです。
正規化された書籍、テープ、ビデオなどの教材は容易に手に入り、インタラクティブな要素を含んだコンピュータ用のエデュティメントソフトはこれから一層普及するでしょう。
形式的な知識を養うという観点からみればこの様な教材を用いた方がよほど効率的で生産的です。
しかしいくら優れた教材が得られたとしても恐らく現代の学習者の大半がは何らかの強制力が無い限り、自ら学ぶのは難しいでしょう。
という事は学校の存在意義は学習の強制にあるのかという結論になりがちですが、学習の強制とは前に述べたとおり、学習者に対して極めて悪影響を及ぼすことになるのです。
では学校の役割とは何かということになりますが。
学習において最も重要なものは学習に対する意義であり、学習に対する楽しさであります。
よって学校は学習者に学習に対する意義や、学習に対する楽しさを教える事にあるのではないでしょうか。
学ぶことに対する意義や楽しさがあれば学習者は自ら学び、考え、進み、教育者の想像以上に力を発揮することができるのです。
つまり学校は学習者に自己教育に対する意義を教え、学習者が自己教育を行う為の最適な環境を提供すべきなのです。

・管理教育から自己教育へ

戦後、いや明治の学制より一貫して続いてきた日本の管理教育は今、大きな転換期をむかえています。
特に日本の管理教育における目的は当初のそれとはまるでかけ離れているのです。
学制が発布された時代、日本はあらゆる面で欧米に立ち後れており、国家の存亡の危機にさらされてきました。
よって日本の学校教育の目的も強い国民を育成し、欧米に対抗しようと極めて明白でした。
国民もその事に対して理解し、厳しいながらも管理教育に対して意義を感じていた事は確かだったと思います。
しかし戦後の高度成長期を経て、国家の目指すべき方向性があいまいになると、学校は社会システムを安定させる為の一種の機械的な装置に過ぎなくなっている様に思えるのです。
また現代の管理教育に対する不信感は並みならぬものがあり、学校教育の荒廃は誰もが認めるところとなっています。
競争が加熱する反面、無気力・無関心が蔓延し、様々な矛盾が発生しています。
また現在では様々な分野の方々が教育改革を盛んに叫んでいます。
しかし大半の主張は現状を批判するだけで、教育のあるべき姿、目指すべき方向性はきちんと描かれていない様に思えるのです。
私は自己教育こそが人間にとって最大の教育であり、教育の目指すべき真の方向性であると考えています。
高い志や学ぶ事への意義を持つ事ができれば、人は学校という枠組みを超え、自らの意志で学び、考え、進む事ができるのです。
よって子供たちに高い志、学ぶ事への意義を持てるような環境を与える事こそが学校教育の最大の責務ではないでしょか。
ここで注意したいのは決して教育者が一方的に志や方向性を与えるのではなく、自ら見つけだせるような環境を与えるということです。
自己教育とはその人の志、学ぶ事への意義によって初めて為されるものです。
そして今こそが管理教育から自己教育の転換期であると言えるのです。
私は管理教育から自己教育へ転換させる為には、制度的なものよりもまず意識改革が最も重要であると考えています。
何の為の自己教育なのか、誰の為の自己教育のか、自己教育の意義が理解されない限り、例え教育制度が変わったとしても、根本的に自己教育に転換した事にはならないのです。
しかし逆に意識改革が進めば、それぞれが自己教育を実践することができ、結果的に制度的なものも変わる事になるのです。
最近になって文部省が「生きる力」と言う表現で自己教育を推進しようと試みる動きが見られるようになってきました。
自己教育の必要性が認知されつつあるように思えますが、自己教育の本質をついた説明はほとんどされていません。
なぜ人は学ぶのか、誰の為に学ぶのか。
その事について真剣に考えた時、管理教育から自己教育への転換は必然的な方向性と言えるのです。

・最後に

自己教育とは自分の中にエンジンを持つようなもので、そこから生まれる推進力は尽きる事がありません。
これは決して人から与えられた、または強制された推進力ではなく、自ら生まれる推進力です。
そして限りない可能性を秘めた推進力であります。
人はただ生きるのではなく、何らかの理念に従って、何らかの目標の為に生きる事が大切なのではないでしょうか。
幸い現代の私達の国家は他の国々や過去の時代に比べはるかに恵まれています。
基本的に自分のお金や時間を自由に使うことができます。
しかし自分の時間だから自由に使っていいのでしょうか。
自分のお金だから自由に使ってもいいのでしょうか。
その自由はもともとあるものなのでしょうか。
決して現在の自由とはもともとあるものではないはずです。
多大な犠牲をはらい思想的自由、政治的自由を手に入れ、
多くの人々の努力によって時間的自由、経済的自由を手に入れたのです。
それゆえに私達は大きな責務があると思うのです。
だからここで何をやりなさいという事は言えません。
しかしその事について自覚を持ち、自分の考えでできる精一杯のことをやる事が大切だと思うのです。
また私は社会とは言葉一つで変わるものだと信じています。
人の言葉が人々を心を変え、人々の心が社会を変えていくのです。
私はいつの日かその言葉、きっかけになりたいと思っています。
私の主張はまだまだ未熟であり、具体性にも欠けているのかもしれません。
しかし私は自己教育が近い将来、普遍的な概念・理念になりうるものだと考えています。
自己教育という理念が社会に広く受け入れられた時、人が、社会が大きく変わっていくと信じているのです。

1999/7/26   三浦 幸太郎

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