エピソード4 原チャリで山形から和歌山を目指す

時期2000年7月(21歳)

2000年7月、和歌山に教会関係の行事があり、それに参加する為(実家が教会で両親が牧師の為)、和歌山へと行く事となった。
ただその手段だが、あまりお金がないんで一番コスト的に安くつく原チャリで行く事にした。
(ガソリン代だけ考えれば片道約2000円)しかし出発当日は雨。
どうしよかっとちょっと迷ったが、午後1頃、荷物だけにビニールをかぶせ出発する事にした。
山形から和歌山まで約1000KM。
偶然にもテキサスを自転車で横断した時とほぼ同じ距離になる計算。
山形と福島の県境付近の山中で突然エンジンがストップした。
まずい、ガス欠かなと思ったが、メータはまだ大丈夫だった。
壊れたかなー、そういえばあんまり長時間走っているとエンジンが焼きつくとかいってたなーと思い、近くのラーメン屋まで引っ張っていき、少し休憩をとる事にした、約1時間後、恐る恐るエンジンをかけてみると、どうにかかかった。
それ以降もなんどもエンストしたが、少し休ませるとかかった。
何しろ中古で2万で買ったやつだから無理もないなと思った。
宇都宮では対向車と正面衝突した。
これは全面的に向こうが悪い事故で、こちらが直進してきてるのを向こうが気づかずに右折してきて、ぶつかってしまった。
幸い急ブレーキをかけ、それほど大きな衝撃を受けなかったが、タイヤの後輪がだいぶ曲がってしまった。
それでも向こうの運転手が心配そうにこっちをみてるので、大丈夫、大丈夫といって現場を立ち去った。
結局、東京に着いたのは午前3時ごろで友達の家に泊めてもらった。
次の日は10時ごろに起き、友達の家をでて再び西へと向かったが、その夕方、神奈川県の小田原付近でついウトウトしてしまい、気が付いたらカーブになっているガードレールに激突して吹っ飛ばされてしまった。
一瞬何が起きたのかわからず、人が集まってきたんで、いや大丈夫です! なんでもないです! といいながらバイクを起こそうとしたが右腕が上がらない。
近寄ってきた人に、あんた腕すごいけがしてるよ、といわれてはじめて自分がけがをしている事に気づいた。 みてみると右腕が10センチぐらい深く切れていて、出血がかなりひどかった。
白い骨もみえていた。
たぶんガードレールが薄い鉄板みたいなやつだったんで、それにぶつかった時に切れたらしい。 ただ不思議と痛みはほとんどなかった。
集まってきた人たちの一人がこれは大変だと、救急車をよんでくれた。
個人的には救急車なんて大げさなと思いながら、でも病院を探していくのはめんどうだし、しょうがないかと思い、救急車を待った。
まもなくすると救急車がきて近くの東海大の付属病院まで運ばれた。
救急車に生まれてはじめて乗れた、とちょっと嬉しかったが、これじゃあ予定通りに和歌山にいけないかなと、先の事が不安になった。
病院に着くとレントゲンやいろいろな質問をされ(警察もあとで来た事情徴収された)、腕を7針ぐらい縫われた。
結局けがをしたのは腕と足の広範囲な擦り傷ぐらいで、骨や筋には異常はみられないとの事だった。
医者にはこれから毎日病院に行き消毒しなさいといわれたが、心の中でそんないけるわけないだろ、と思いながら病院を後にした。
さて、病院をでてまずはバイクをとりに行かなきゃと思い、警察の人に聞いた現場の近くの駅へ向かう為バスに乗った。
バスに乗ってしばらくしてから、バスの運転手から声をかけられた。
あんたそのけがどうしたの、って。
その事を話すとその運転手は、親切にも仕事が終わるまで待ってくれれば車でそこの事故った現場まで送ってやるよ、いってくれた。
そこでそのバスで仕事が終わるまで待つ事にし、その人の車で事故現場へと向かった。
車の中で今度が今晩はどうするの、と聞かれて、言葉につまってしまった。
いやもともとどっかで野宿するつもりだったんだけど、まさかそんな事いえないなと思い、適当に安いホテルにでも泊まりますって答えたら、うちでよかったら泊まっていきなよと行ってくれた。
それは悪いですと断ったが、結局、泊まる事になった。
バイクは不思議と、ほとんど外傷はなかった。 宇都宮で事故った時の後輪以外は大丈夫だった。
それからバイクでその人の家へ向かい、遅くまでいろいろと話し、翌日昼頃、その人に近くの駅まで送ってもらった。
二ノ宮という駅だったが、そこから今度は青春18切符で和歌山へ向かう事にした。
その日は京都駅で寝、次の日の朝、和歌山へと着いた。3日後教会の行事が終わると、和歌山市内をちょっと観光し、念願の京都へと向かった。
個人的に以前から司馬遼太郎の小説などの影響で幕末に興味があり、幕末、いろいろな事件がおきた京都の名所(御所、池田屋、近江屋、寺田屋、新撰組の屯所など)をいつかみてまわりたいと思っていた。
京都には友達がいたのでその人に2日ぐらい、いろいろと案内してもらった。
帰りには菊一文字(もとは名刀の名前)というあこがれの刀屋さんでナイフを買い、京都を後にした。
帰りはまたバスの運転手さんの家にとめてもらい、そこからまた原チャリで山形へと帰った。
本当に疲れる旅になってしまった。。

山形に帰った後、
1週間ぶりぐらいに恐る恐る病院に行った。
医者からはなんで1週間もほっておいたの、といわれ点滴まで打たれたけど、
その2日後には糸を抜いてもらった。
医者が言うにはおどろくほどの回復力らしい。

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